「天下三分の計(隆中策)」は、中国三国時代に劉備玄徳に諸葛亮高名が解いた戦略で有名です。
『天下三分の計とは』
<背景>
当時、曹操は汝南袁氏を倒して中原地方をその支配下に治めており、中国全土の統一までは揚州の孫権、荊州の劉表、益州の劉璋、漢中の張魯、涼州の馬超・韓遂などを残すのみとなっていた。
その頃、流浪の身であった劉備は劉表のもとに身を寄せていた。劉表が支配する荊州は、揚州と益州の中間に位置しており、軍事的に極めて重要な地域となっていた。
<内容>
このような情勢を踏まえ、諸葛亮は劉備に対し、曹操への対抗策とし策略を説いた。その内容は、曹操の能力、権勢は大きくこれに争うことはまったく不可能である。荊州の交通の便、益州の豊かさを具体的に語り、今の荊州の主では国を守ることができず、天が劉備にこれを与えているも同然だと述べた。益州の状況は劉璋が闇弱さ張魯の脅威が北にあり、士人たちは明主を求めており、この二州を領し、南方の夷越族を慰撫し孫権や西方の諸戎らと結んで守りを固め、曹操に対抗し、天下に変事があった際、部下に荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、劉備自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃することにより曹操を打倒すれば漢王朝を再興できる、というものである。
「天下三分の計」がなった後の件は、下記の「孫子の兵法」を言葉を想起させます。
『勝つべからざるは己に在るも、勝つべきは敵にあり』(「軍形篇」より)
(勝利の態勢をつくれるかどうかは己次第であるが、勝利できるかどうかは敵次第である)
『蜀漢建国後に北伐の継続。何故?』
ですが、孔明は、北伐を続けることになりますが、理由はなんだったのでしょうね。
後漢の最後の皇帝である献帝が行方不明(魏が献帝を殺した?)になったという情報を元に、玄徳は皇帝をの名乗って蜀漢を建国しました。
ですが、後で献帝がひょっこり生きていたことが判明。
そうなると蜀漢を建国した理由がなくなります。大義名分が無くなった訳です。
「孫子の兵法」でいう「五事七計」で言えば、ましてや「国家」が存在する大義名分な訳ですから大変な話です。
そうなると力で認めさせるしかない、となってしまったようです。
魏側にしてみると、蜀が力を認めさせようと戦争して来ても、(民心が離れる可能性がある)戦争を仕掛けて来なくても、国力に差がある訳なので、長期戦になればなる程、勝ちやすくなる、と目論んだのかもしれませんね。
『まとめ』
自分が勝てる体制・環境作りはとても重要です。
ですが、それを作った後も勝てる戦い方を続けられるかは更に重要であり、忍従の道だと思いました。
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