明治維新の立役者である薩長土佐肥。その中でも異彩を放つ「肥前藩」の特色について考察!?

黒船来航が切っ掛けとなる「明治維新」は、19世紀後半の日本において起こった政治的・社会的変革のことで、幕末から明治時代への移行期を指します。この時期に、日本は江戸時代からの封建的な社会制度や幕藩体制を打破し、欧米諸国からの知識や技術を導入し、急速な近代化を遂げました。 その立役者と言えば、薩摩藩、長州藩、土佐藩が中心です。中でも私達が知っているような志士を排出した長州藩は、吉田松陰を始め多くの志士が亡くなり、また江戸幕府からも攻められた。

志士が主張した「尊王攘夷」

幕末の志士は「尊王攘夷」を主張していましたが、「尊王」とは天皇のことであり、天皇を崇拝し、天皇中心の政治を主張する思想です。幕府による独裁的な統治に対する批判が高まる中で、天皇を象徴とする国家統一のイデオロギーが再評価され、尊王思想は急速に広まっていきました。

「攘夷」とは、外国勢力の排除を意味します。幕府が外交上で欧米列強諸国と交渉して開国を進めたことに対し、日本を危険に晒すとして、これに反対する思想です。志士たちは、外国の文化や風俗を排斥するわけではなく、むしろ自己の文化を守り、進化させていくために必要な対外的な立場でした。

口論では攘夷はできない

幕末期に「佐幕」、「尊王」、「公武合体」のいずれとも主張する派閥とも均等に距離を置いた「肥前藩」。その為、藩主である鍋島閑叟(かんそう)は「肥前の妖怪」と呼ばれ警戒されました。

そのような「肥前藩」の鍋島閑叟ですが、自分の藩で兵器を作るような藩改革に成功し、イギリスには勝てないが、オランダには勝てると豪語する程の兵力を整えていました。

「尊王攘夷」を出張する藩に対する評価は空論とし「口論では尊王攘夷はできない」、また「孔子、孟子は尊敬に足りぬ。なぜならば彼らを今の日本に生まれしめても一隻の軍艦も造れまい。空論を戦わせているうちに国が亡ぶ」とも言っていました。

そして、鳥羽・伏見の戦い後から新政府軍に参加します。

肥前藩の「道」

『閑叟三十代のはじめ、すでに藩を完全に掌握したころ、藩士の無学を憎み、試験制度を採用し、それにもし合格しなければ家禄のほとんど(八割)を没収する旨の布告し、実行し、家臣団をふるえあがらせたのは、かれ自身が非凡の学才がってそれにみずから陶酔する性格があったからにちがいない。

藩校の名を弘道館(こうどうかん)といった。藩士の子弟全員を六、七歳で就学させ、二十五、六歳で卒業せしめた。 こんにちでいえば、全員大学教育をあたえたわけで、これほど長期間の義務教育をほどこした藩は、この肥前藩しかない。(中略)

その学風は、葉隠武士道をもってした。じつに奇妙な道徳で、徹頭徹尾、藩主に随順を強要している。

(中略)

「その要旨は、武士なるものは、ただ一死をもって佐賀藩のためにつくすべしといふにあり、天位の広き、藩士の多きも、佐賀藩より貴かつ重なるものあらざるがごとくに教へたるものなり。その開巻には、釈迦も孔子も楠も信玄も、かつて鍋島家に奉公したる事なき人々なれば、崇敬するに足らざる旨をしるしたる一章あり。もって該書(このしょ)の性質を窺ふに足る」

(中略)

佐賀藩では、葉隠論語、鍋島論語とよばれて士風の根幹となっていた。』(「肥前の妖怪」司馬遼太郎著より)

この「道」と社員教育も含めた「法」は、「時」つまりトレンドという時間軸で大きく変容する。 社会変化が激しいときであれば、組織としては独裁制のが変化に素早く対応しやすいですが、その反面、どうしても何かに偏りがちになる傾向があるから為、社会変化が緩慢のときは合議制の方が好ましい、と言えるかもしれません。

その意味では、肥前藩の葉隠士道は、いわばワントップ、独裁色が一辺倒だったようです。その為、土佐藩のように藩が内部対立をすることがなかったという面があげられます。

「どのような働き方を望むか」という問いに対して、「歯車」として働きたいと希望する一部の社員群、又は「歯車」以外の社員しか必要としない組織以外は、個の特性を無視する面もあり、一過性の教育方針であることを前提で行うべき教育方針である。

肥前藩の「天」・「地」

「そういう大要塞築造が成るか成らぬかは別として、たとえ失敗してもそこまで漕ぎつければ、佐賀藩は三百諸侯のなかでたった一藩、様式兵器のあらゆるものを自藩で作りだせる能力をもつぞ」

「(中略)領内武雄の鍋島十左衛門屋敷を秘密研究所とし、火薬、化学、鉄砲製造法などを実験研究した。この秘密はよく保たれた。なぜならば、肥前佐賀鍋島藩は、藩祖いらい、極端な鎖国主義をとっている。日本全体で鎖国で、そのなかで佐賀藩が藩として鎖国しているため、「二重鎖国」とよばれた。外部から入国する者を拒み、領民は藩外に出ることはゆるされず、藩士も、藩命によらずして他藩士と交際することもゆるされなかった。この点、薩摩藩よりも徹底していたといえるだろう。だから、漏れない。」

「閑叟は多年、藩の子弟を大量に長崎に送り込んでは、理化学を学ばせていた。」(「肥前の妖怪」司馬遼太郎著より)

幕末というタイミング(「天」)だからこそ、肥前藩の富国強兵策がより映え、時代変化に対応することができた。

肥前藩の経済的な成功の1つに密貿易がありました。というのも長崎の出島は肥前藩にあり、密貿易だけでなく、「藩の子弟を大量に長崎に送り込んで」いました。

藩内に出島があったのは、他の藩と異なり西欧に対する抵抗感が低かったことが想像できます。藩内で西欧に対する抵抗が強いと、いくら大名が西欧化を指示しても、技術を学んでもなかなか身につかないし、学んだ技術を応用することも難しいでしょう。ですので、西欧化に対する敷居が低いというのは技術力を身につける上では最大のメリットです。更に肥前藩は、葉隠士道で教育をしていますから、死に物狂いに技術を学んだのではないでしょうか。

この辺りは、同じ「薩長土肥」の薩摩藩と異なる士風があり、「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)には薩摩藩出身の登場人物(東郷平八郎、大山巌など)にみるリーダー像が色濃くイメージされる為、幕末に教育を受けた人材群を比較しても面白いかもしれない。

肥前藩の「将」

肥前藩の鍋島閑叟は大名ですが、ここでは「将」として捉えて考えたいと思います。

彼の思想の一端が解るので、「肥前の妖怪」から逸話を紹介します。

『「ある日弘道館の書生のあつまりへ臨み、「源平のことを論じよう。源頼朝と平清盛とをくらべていずれが英雄か」と聞いた。みな、「頼朝」と答えた。 「然らず」と閑叟は笑った。「清盛が英雄である。貿易をひらき、世を富ませようとした。頼朝は何をしたか」』

『「いまの世に、佐賀藩士だけが武士である」「葉隠のことでございますか」と書生の一人がきくと、「さにあらず、様式銃をもち、洋式の砲を知っており、藩に歩兵、騎兵、砲兵の三兵がある。世間に横行している二本差しの侍まげは、あれは当人は武士だと思っていても、実は三百年前の武士の亡霊で、武士とはいわぬ」といいつつ、「武士とは、戦いに勝てる者をいうのだ。いま、佐賀藩百人と他の藩士千人と合戦してみよ、勝つに四半刻もかからぬ」ともいった。』(「肥前の妖怪」司馬遼太郎著より)